コタパパの独り言

日記ページの上部に入れたい言葉・画像など
2011年08月の日記

あぐりの丘

家から5分位で行ける「あぐりの丘」
少しリニューアルされて小さな子供と一緒に行けるスペースもできています。
平日はいつも貸切状態、ゆっくり散歩できます(^^ )♪
2011年08月27日(土)   No.143 (日記)

文集 “道” 黙々と作業中

長崎合気道会は創立されて33年。毎年1回、全会員の作文を集め“道”と題して発刊し今回は“第33号”となります。今年も全員の原稿提出が完了して、大村で文集作成作業を行いました。

会員の人たちとの交流ができるのは、夏のキャンプと年末の忘年会ぐらい。稽古ではいつも会っているのに稽古中は私語厳禁ですから何年も一緒にいる割にはその人のことは何にも知らないということになります。

この文集のおかげで、この人はこんな趣味があったのか、こんな考え方をするのか、こんな一面があったのかと知ることができ、会員の相互理解にも役立っています。

黙々と作業中の模様
http://www.cotapapa.com/aiki/110827/
2011年08月27日(土)   No.66 (武道)

合気道 〜 ある日の稽古 2011

礼を重んじ和気あいあいと・・・しかし、技の習得は向上心を持って熱心に・・・ ある日の稽古を写真でまとめてみました。稽古はこんな感じでやっています。(^^ )♪

長崎合気道 稽古風景 2011年ある日。
http://www.cotapapa.com/aiki/110701/
2011年08月22日(月)   No.65 (武道)

2002年の独り言から 〜 槙健一

先日は「槙健一さんのリボン」について書きましたが、2002年、彼が亡くなった年に「別れ」と題して彼のことを少し書いています。

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【 別れ 】 2002.9.13

人との出会いは、ときめきがあっていつもうれしい。しかし、人はいつか別れの日を迎えることになる。いつ別れの時がやってくるか分からない。それは予測もせずにやってくる時もあるから、コタ家では「死」の話を息子の小太郎を交えて、日常の会話としてあっさりとやってしまう。

小太郎を可愛がってくれていた父が逝った後、小太郎と父の話をすると「おじいちゃんの話しないでよ。」と怒っていた。父の死に顔を思い出して悲しくなるらしい。しかし今では「お父さんは死んだら、おじいちゃんと同じような死に顔だな、きっと。」などと平気で言うようになった。

もちろん家族みんなが健康で長生きできることが願いだが、今日限りの命になるかもしれないことを覚悟しておけと常々小太郎にも言ってある。

死を理解することで、生きているもの物へのやさしさや、いたわりが生まれてくれればいいと思う。そして、生は有限であることを前向きに認識して、今、与えられている時間がいかに大切であるかを自覚することが出来ればいいなぁと考えている。

突然にやってくる別れをいつも覚悟しておきながら、別れの時は悲しく寂しい。今月1日、私が大好きで応援していた音楽家の槙健一さんが32歳という若さで亡くなった。「独り言」のコーナーに槙さんのことを何か一言書こうと思いながら、今日まで書けなかった。

彼は音楽的な才能はもちろん、人間的にも魅力的な人でこれからの活動を楽しみにしていた。彼の歌を聴くと勇気、希望が湧いてくる。そして人柄のやさしさがこちらにも伝わって、周りの人までやさしい気持ちにしてくれる。この若さでの別れとは誠に残念だが、こんな人と会えたことを感謝している。

槙さん、長い闘病、お疲れさま。
私たちを照らしてくれてありがとう。じゃぁ、またね。
2011年08月22日(月)   No.64 (音楽)

合気道 〜 文集 2011

合気道の夏休みは今日迄で、明日から稽古が始まります。

そして、後期の稽古始の日は全員がそれぞれの思いを書いた文集の原稿提出日でもあります。いつも提出期限ぎりぎりに書き上げるので、今年は早く済まそうと思ってはいたのですが・・・ 結局、今日になってしまいました(^^;

今年の文集は「リボン」と題して、長崎出身のシンガーソングライター・槙健一さんのことを書きました。

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 リボン

どんなに風の中へ 悲しみ飛ばしても
この長崎(まち)はあの日を忘れない
涙に唄う歌は 明日への希望の歌
心に響けば 天まで届く
そして今 僕らが願いを込めた リポンが風に舞う
今日のために 明日のために 永遠のために ・・・・・・

長崎出身のシンガーソングライター、槙健一さんが作詞・作曲した「リボン」という歌の一部です。毎年8月9日の原爆記念日には「平和を願う歌」として何度も流れますから、一度は耳にされたこともあるかと思います。

「みんなは長崎は素敵な街だと言うけど、この街には原爆が落ちた歴史があって、平和の像が指を高く掲げて平和を祈ってるんだよ」という気持ちを込めて「リボン」という曲が生まれました。

彼を知ったのは、1995年に彼のデビュー曲「夢の吹く丘」を聴いてからです。長崎出身のこんなすばらしいアーティストが居たのかと、とても嬉しく思いました。

それから4年後、彼が体を悪くして長崎に帰り活動していると聞きライブを見に行きました。ライブが終わった後に彼と話をしましたが、彼の真面目で澄んだ目、そして礼儀正しい態度に感心しました。

その帰りに家内と「槙健一を応援をしよう!」と決めました。彼の歌だけでなく人間的な魅力に魅かれてしまったのです。 そして彼のライブを追っかけ、彼の応援ホームページなども作りました。

彼はデビュー前から、肺に穴が開く肺気胸という難病と闘っていました。入退院を繰り返し何度も手術をしながら活動を続けました。晩年は歌を歌うことも出来ない状態でしたが、音楽に対する情熱は高まるばかりで、音楽事務所を設立してプロデュース活動をはじめたばかりでした。しかし、2002年に32歳という若さで亡くなってしまいました。

彼の音楽は今、いろんな形で今も受け継がれています。最近は県内、県外の小学校や中学校でなどでも「リボン」を歌ってくれているところが多くなっています。また、槙さんが残した曲を中心に、弟の友博さんがTATSUMAKIというバンドで活動しています。

これからも、彼が残してくれた名曲「リボン」を始めたくさんの曲は、いつまでも歌い継がれると思います。私も彼が生きている時と同じように応援を続けるつもりです。

・・・ そして、彼がいつも口にしていたのは「戦争反対」ではなく「平和賛成」でした。

 僕等が願う平和とは
 些細な喜びであったり
 夢を掴んだ瞬間であったり
 他人の痛みを感じれる事であったり
 自分の喜びを分け合えることだったり
 心の豊かさのスペースは誰もが違う
 そして僕等の願う平和とは
 武器より軽く持ち易く
 地球より重く大切なものである

                槙健一


2011年08月16日(火)   No.62 (音楽)

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